top » 伊能測量応接室 » 伊能測量漫筆

伊能測量隊の宿泊代

 第三次測量以降では、旅行のための荷持の運搬、測量器具輸送のための人足は無料で宿場から提供された。幕府公用の扱いに昇格したということである。しかし、幕府や藩から手当が出るわけではなく、宿場が役務として課せられた仕事だった。その代わり課税面でメリットがあったり、一般人相手の宿場営業で収益があったりしたが、色々問題が多かったようであるが、ひとまずおいて、今回は宿泊代のことを書いてみる。
 当時の休泊施設のことをHPで調べていたら、こんなことが出ていた。
 「幕府公用の役人や大名等の宿泊設備としては本陣及び脇本陣が、一般の人達の宿泊設備としては旅籠屋があった。本陣について、幕臣を先祖に持つ作家岡本綺堂は「風俗江戸物語」に、徳川家の武士が御用を帯びて出張する場合、原則本陣に泊まることになっていたが、本陣の汚さは御話にならなかった。大名でも旗本でもよく我慢した」と書かれているそうである。
 「宿泊賃は、普通の宿屋の場合、百五十文から二百文(相対賃銭)、本陣では武士一人百文位(御定めの賃銭)であった」と云う。
 
 一寸、信じ難い話だが、伝承として、あながち無視もできないだろう。私も昔、古文書の勉強をしていたとき、グループの長老に、幕末の外国奉行・竹本淡路守の子孫という方がおられた。あとで、幕臣の子孫の方を集めて、徳川柳営会を作り会長をしておられたが、勉強の合間に、よく江戸城中のことを伺った。竹本さん曰く。
 「城中では、冬でも足袋をはけるのは将軍だけ、また、座布団に座れるのも将軍だけだった。他のものは屋敷に帰れば殿様でも、城中は家臣だから、足袋、座布団などとんでもない。特に許された人以外は使えない」ということだった。将軍御前はそうとしても、事務室には座布団くらいは、と思いたいが、そうではなかったらしい。
 各地の記録によると、伊能隊の宿舎は本陣のあるところは、原則として本陣だったことは間違いない。街道ばかりでなく海岸なども測っているから、宿泊地に本陣が無い場所はいくらでもあった。そういうところでは、百姓やとか大きな農家に泊まったが、第5次以降では人数が多くて、一軒に泊まれず、分宿、寺の利用などがおこなわれた。場所によっては、臨時に本陣を決めた場所もある。
 夜は天測があり、データ整理の残業があったから、隊員が離れていては不都合だったろう。また、寝室は相部屋は当然だった。忠敬と上司の景保の弟善助と同室、内弟子グループ、下役グループ、従者の部屋などと分けていた。

  宿泊代は一泊幾らではなく、木銭と米代を払っている。
 例えば、第5次測量の江州鎌掛村の記録では、宿泊料は木銭で上分(若党以上)36文、下分(従者)18文、他に米代一人白米5合で、ここでは38文を払った。上分で一夜74文、下分は56文で、前掲のお定めの賃銭よりさらに安い。他の記録でも、その土地ごとに定められた木銭と米代を相場で払った例が多い。木銭は泊まり賃、米代は米に換算した食事代ということであろうか。
  忠敬は宿泊代の受取帳を持っていて、支払いを受けた村役人はこの帳面に押印したとある。一汁一采で馳走はいらぬと先触れでは必ず断っているが、地元としてはそうはいかなかった。一汁三采くらいが普通で、大藩では領内に入った夜と、最後の夜は一汁五采くらいが多い。打ち上げではお酒も出され、村側も役人が出て宴会になった。

 お酒の話は別の機会に書くが、普段は、天測とかデータ整理があり、残業を前提に日程が組まれていたから、食事にお酒をのんではいられない。忠敬は、お酒は飲まない。酒は無用、酒飲みは連れていない、といっているが、実態はそうでもなかった。
 宿舎側が一番気を使ったのは、料理、風呂場、トイレだった。何処でも大変気を使っており、風呂場、トイレを新設したところも多い。しかも身分社会なので、上分用、下分用の2種類が用意された。料理は専門の料理人を、材料込みで雇ったところもある。 木銭、米代などは話にならなかった。
 

▲このページのトップへ