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伊能家はどのくらいの金持ちだったか


 忠敬は50歳までに事業に成功してお金があったので、何でもチャレンジできたわけですが、どのくらいのお金持ちだったか。調べてみるとそれほどでもないのです。
1.伊能家の財産はどのくらい?
 伊能家の財産は3万両といわれています。これは伊能家の由来を記した「金鏡類録」という伝世資料のなかに出てくる数字です。資料によれば、次のとおりです。
第一次測量の前に、佐原の村民が、勘定奉行柳生主膳正に対し、伊能家が村民のために尽くした功績を申し立て、苗字帯刀をゆるしてくれるよう願い出ます。(実際には忠敬の測量を円滑に進めるために、領主津田家の許可だけでなく、幕府から直接名字帯刀御免をいただくことを期待したものですが)
 そのとき、奉行が取り調べの席で、伊能家の財産はどのくらいあるのか、と尋ねます。村民がそういうお話にはお返事できかねます、といったが、強いて尋ねられ、7・8万両もあるかと聞かれて、そうはないでしょうと返事をする。ある村民が「3万両くらいといわれている」と答える。

「金鏡類録」はそういう経過だったと、村人の報告を記録しているだけで、伊能家が認めたわけではありません。しかし、全く違う話を記録することもないので、そう的違いでもなかったのではないかと思います。伊能家の財産3万両という話は、この程度のことで、そう根拠があるわけではありません。1両を20万円とすると60億になります。10万円なら30億です。
 もうひとつ、隠居前年(1793)の店卸帳が残っています。こちらは、忠敬自身の数字だから根拠になります。利益が1,264両2分、持ち越し資金8,000両余です。1,264両は1両を20万円とすると、2億5300万です。3万両から8,000両を除いた22,000両を運転資金とすると、1,264両は利益率5.7%です。利益率が少ないような気もするが
、3万両には、家屋敷、貸家・貸蔵、田畑、などの不動産も含まれていると考えられるので、あながち収益力が低いともいえないでしょう。

2.当時のお金持ちの財産との比較
(1)井原西鶴の定義
 ところで当時の金持ちとはどのくらいの資産家だったのでしょうか。(江戸の風俗 町人篇 田村栄太郎 昭和36.6. 雄山閣による)井原西鶴(1642-1693)の諸書によると(銀60匁を1両として)注:西鶴は忠敬より100年前の人。長者 17,000両、分限者 8,500両、金持ち 3,300両 だといいます。百年間の物価の騰貴を無視するわけにいかないが、忠敬の頃は、米の値段は1石、1両を中心に上下しているところから換算すると、忠敬は分限者ということになります。
(2)三越の売上高
 当時のおそらくトップ企業の、三井越後屋の売上高を見てみよう。1745年には1日あたり売り上げは、銭2,722,700文(松下幸子千葉大学名誉教授)というから、4,000文を1両とすると1日680両、1年では248,200両。薄利多売だが利益を10%とみて24,800両、伊能家の20倍となります。桁がちがうが、案外こんなところかも知れません。
(3)大名・旗本の知行を収入に換算
 大名大知行1万石は、5公5民として実収入籾5000石、精米になおして2500石、1石1両とすると 2500両で、金持ち級に過ぎません。それで家臣・奉公人200名以上を養うのだから大変です。伊能家は1200両の収入でしたが、従業員は酒の仕込み時で50人。普段は20人以下だったと思われます。領主で6,000石の津田山城守より、余程楽だったのではないでしょうか。

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