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敬の生前に建てられた記念碑の立つ唐丹(とうに)


 唐丹には、有名な「陸奥州気仙郡唐丹村測量之碑」と「星座石」と呼ばれる記念碑がある。

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 唐丹の篤学者葛西昌丕(かさい・まさひろ)が文化11年(1814年に建立したものである(昭和六十年県指定文化財)。建立年の文化11年に当時忠敬69歳、第八次測量から帰着した年である。葛西の年令は、忠敬が測量のとき37歳、建碑のときは50 歳と推定されている。地元では葛西は忠敬に会っていると論じ、伊能忠敬研究家・保柳博士は会っていないと否定する。どう考えたらいいであろうか。測量日記や多数の地元史料を通した感じでは、こういうとき、地元の37 歳の篤学者だったら、必ず会いに行ったと思う。会う、会わないは忠敬の勝手であり、書き残すかどうかも定かでない。書かないほうが多いだろう。しかし、会ったとすれば本人は必ず記録に残すと考えられるが、見つかってはいない。それに、本人がいなかった場合はやりようがないだろう。唐丹の場合、私は、葛西は現地にいなかったのではないかと思う。データは後で入手の方法はあったから、後年データを入手して、現場に立ち合えなかった残念な想いから建碑したのではないだろうか。

 享和元年九月二十二日 朝より曇る。六ツ後出立。宗平、慶助は昨日の残を測り、直に越喜来を測。余と郡蔵、秀蔵は唐船看所にて所々測る。越喜来(おきらい)村、浜々おおし。七ッ後に着。止宿肝入善左衛門。此夜雲中測る。

 越喜来は深い入江の最奥だ。三陸町の綾理(りょうり)から、陸路を越喜来(おきらい)に測っている。忠敬と郡蔵、秀蔵は唐船看所で方位を測ったという。唐船看所( とうせんかんしょ)の意味は分からない。事典にも出てこない。方位を測ったのだから見通しはいいのだろう。唐船がこんな所まで、漂着するとも考え難いが、地元の方に御教示いただければ有難い。雲中測る、は雲の間に星を探して測ることである。

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