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青森の六ヶ所村で吹雪に難渋する。


 享和元年10月第二次測量の途中、六ヶ所村ではひどい目にあっている。清書本測量日記と伊能忠敬先生日記により実景を復元してみよう。

 十二日 朝六ツ晴る。六ツ半頃市川村出立。 是迄三ノ戸郡、是より北郡、浜三沢村へ着。止宿嘉茂助。午中なり。明日平沼村迄里数おおき故に、宗平、秀蔵、慶助をして途中迄測らしむ。此日宵迄晴る。二三星測量後大に曇る。 それより雪降出し、夜明けに到る。積る事三四寸に及ぶ。

 [実景の復元]
 享和元年十月十二日 朝は晴、六ツ半頃、現在八戸市になっている市川村を出立。ここまでは三ノ戸郡だったが、ここからは北郡である。次の宿舎の浜三沢村(三沢市の東部にあった集落、以前は役場もここにあったが、三沢基地の騒音のため、施設はすべて移転してしまった)までは3里で、この間、すべて海辺で家も船もない。白砂の渚が続くばかりだった。西側の岡の上には岡三沢という集落があり、旗本巡見使も通る街道があったが、浜からは見えない。宿泊地の浜三沢の村も海からは離れていて海浜からはみえなかった。昼ごろ、宿舎の嘉茂助宅に着く。明日の宿泊地の平沼村までは6里半もあって遠いので、宗平、秀蔵、慶助らに途中迄測らせる。慶助が疲れてダウンしてしまった。宵迄は晴れていたので、天測を初め、二三星測ったが、その後大曇になり、遂に雪が降出し、夜明けまで続いて三四寸積もった。

 同十三日 雪止、六ツ半頃浜三沢村出立。直に雪降出し風強、山々より吹下し大吹雪と成、雪と砂を吹散し、咫尺をも弁ぜず。歩行成し難く長持を小楯となして大吹雪大風をしのぎ、風間風間に歩行す。乗し駕篭の篭油も海に吹飛し、戸障子も吹散しけるを漸と取得たり。故に駕篭の中も雪吹込外も同じ。 からくして平沼村に八ツ半頃に着ぬ。止宿庄八。手帳には治兵衛とあり。此日道路不測量。七ノ戸より宿老治兵衛、五兵衛此所へ出勤して世話す。市川村、浜三沢村、平沼村、泊村、小田沢村、田名部、御順見道なりという。

 [実景の復元]
十月十三日 雪が止んで、六ツ半頃浜三沢村を出立する。しかし、すぐに雪が降出し、強い風が山々から吹下し、大吹雪と成って雪と砂を吹散し、先が少しも見えないほどだった。歩けないので、長持を楯とし皆でうずくまって、大吹雪大風をしのぎ、少し収まった合間合間に進むようにした。駕籠の蓋は海に飛んでいってしまい、戸障子も飛んでいったのをようやく拾う始末だった。こんな訳で駕籠の中も雪が積もって外と同じ。そして終夜、大風雪だった。 平沼村(現六ヶ所村)泊。この日は全く測量どころではなかった。翌日未測部分を測る。この辺は第二次測量では最も難航の地だった。人家は浜三沢村十八軒、岡三沢村十九軒、平沼村二十軒で、村々といっても小さかった。この小さな村々から伊能隊の案内人(2人)、長持ちの人足(4人)駕籠人足(2人)、馬(1人)、荷物運び人足2人、と少なくとも11人を差し出すのは大変だった。人足にはお定めの賃金を払っているが、村にとっては総力戦だったろう。幕府勘定奉行の先触れと藩主からの指示がなければ難しかったと思われる。駕籠は忠敬の乗用であるが、病人が出た場合は救急車として、次の宿舎に患者を輸送する役割もあった。駕籠に乗ることのない内弟子だけの支隊でも駕籠は用意されたし、所により空の駕籠を従えた場合もある。緊急対応が考えられており、忠敬は医薬の知識もあって医薬も持参していた。

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