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伊豆測量のもめごと

 海中引き縄の始まり
 伊豆測量では、海岸の地勢が厳しいので、規模は小さいが海中引き縄が始められた。中図に表現できるほどではないが、日記に記されている。
 五月九日大川村(大川温泉)から堀川村(北川温泉)へ測ったとき、堀川の村役人で堀川津右衛門という七十余歳の元気者がいた。他の者は反対だったが、海岸線は通り難いから船で縄を引こうと言い、船を用意して釣縄を持ち出し、波の高い中で縄を引き、方位や距離を測る作業を手伝った。同じ日、少し先の白田村(白田温泉、当時家数一三三軒)では、昼食後村役人曰く
「波浪が高く海中引き縄は難しい。海際の山道を測って欲しい」と。
しかし平山郡蔵・宗平兄弟は承知せず、船を出させ難儀をしながら測量をおこなっている。

下田で大方位盤紛失
 下田以遠は、道は厳しく、長持ちの運搬は難渋すると予想されたので、大方位盤を江戸に送り返すことにした。「こも包み」にして、深川の五味藤五郎方へ送るよう宿舎の庄左衛門と町年寄りに依頼して出発する。ところが、この荷物は測量が全部終わっても届かなかった。 問合わせても返事がない。下田船の宿・鉄砲洲の太田屋喜八という者を探し出し、他の廻船問屋の荷物に紛れていないかも調べた不明だった。この上は、代官の江川太郎左衛門役所か幕府勘定奉行役所に訴えるしかないと太田屋に伝えたところ、それでは下田町の役人や宿がお咎めをうけるから、厳しく交渉するので少し待って欲しいといわれる。  二月になって漸く荷物が届いた。町年寄から詫び状が来たが、忠敬は宿亭主・庄左衛門は不届き者であると激怒する。全く分からない話であるがこんな理不尽なこともあった。横取りを試みたらしいが、知らない者には価値がない品物なのだ。。


 妻良-子浦の海中測線
 大図102号に海中測線が出てくる。手分け隊が陸路を測り、忠敬、郡蔵が船で渡った。険しい道なので村役人が奨めたのだろう。。
『五月二十日 朝晴。六ツ半頃長津呂出立。中木に至る。中木は入間村の内。是より手分をなし宗平、秀蔵、慶助へ嘉助を添て山道を測量させ、我と郡蔵は乗船、海岸を見分、入間村に至て落合。それより又手分をなし、我等に郡蔵、又乗船し妻良村に至る。それより子浦村の渡りの方位、間数を測て、山道測量の者を待合、同船して子浦村へ至る。 七ツ頃に着。宿名主甚兵衛。』

村上島之丞制作の伊豆図を見る
 土肥では態々名主・善八宅を訪れたとある。松平定信巡視の供をした村上島之丞制作の伊豆の国図を参観したのである。私も、村上の測量の才能のことを聞いていたので、伊能ウオークのときに見にいった。まず伝存者の屋号が違っていた。善八でなく勘八だったように覚えている。うろ覚えだが、念押したので、善八でなかったことは確かである。地図は現存しているが、全景が伊能図とは大分違っている。村上と伊能では、測量家としては桁が違うように感じた。(村上島之丞は、またの名を秦檍丸(はたあおきまる)といい、俊足で知られた。第一次測量の途中、一の渡で2回会っている) 。

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